生きる意味に悩む人に伝えたいこと - 加賀百万石ですが何か?

生きる意味に悩む人に伝えたいこと

「伝えたいこと」なんて偉そうなタイトルにしちゃいましたが、僕自身20代半ば頃から30歳手前頃まで生きる意味については結構悩んでいたので、そのときに何を思って、悩み続けた結果今はどうなったのかというところをつらつらと書いていきたいと思います。

ここに書くのはあくまでも僕個人の経験なので、他の人に当てはまるかは分かりませんが、そもそもこの記事に辿り着いた人は、世間の人は生きる意味について悩んでいるのか、そもそも悩んでいる人なんてそんなに多いのか、等々「世間の相場を知りたい」というモチベーションの人が多いと思うので、まぁ参考程度にして頂ければなと思います。

言いたいことの要点だけまず先に書いておくと、

  • 職業と生きる意味は紐づかない
  • 生きるということに「意味」なんてない
  • 生きる意味はそもそも考えるものではなく、たまたま出会うもの
  • 生きる意味は自由に決めればいい、それも何度でも

ということ感じですかね。

20代半ばで分かった生きる意味

まず発端としてなぜ生きる意味に悩むようになったかですが、細かいきっかけは色々だとは思いますが、自分の中で比較的大きくて今でも思い出せるものはやっぱり就職活動かなと思います。

僕自身は、あまり自分を売り込むことであったりよく見せることがそんなに得意なタイプではないです。そのため就職活動の特に面接においては結構苦手意識があり、周囲にいた友人達と比較すると、実際にそれ程うまくは進んでいなかったかなと思います。

そういう状態が続くと「自分は社会から必要とされていないんじゃないか」という意識が芽生えてきて、それが「生きる意味が分からない」とか「何のために生きているのか」というような悩みに繋がってくる訳です。

その頃にひたすら(かつ極力論理的に)考えて考えて考えた訳ですが、途中の経緯は正直忘れてしまったのですが、自分の中での結論として「生きる意味なんて無い」というところに行きつきました。

もう少し正確には、

「生きるとはそもそも何か?どう定義できるのか?」

という疑問から、

「生きるということは、生命活動を維持している”状態”であるとして、公理的に受け入れざるを得ないもの」

という結論に至ったような流れでした。

生きるということは、「天下り的」に受け入れざるを得ないことという結論になったので、その裏返しとして「そもそも意味なんて無いじゃん」という結論にならざるを得なかったというものです。

一般論として生きる意味なんて無いということはよく聞きますが、自分の中で(少なくとも自分が納得できる論理で)生きる意味なんてないということに行き着いてしまったことはなかなかの衝撃ないし絶望だったことは今でも覚えています。

なんせ、生きる意味を見出したい人間が「生きる意味は無い」という結論に納得できてしまった訳ですし。

そんな訳で20代半ば頃にもうこのような結論に達してしまった訳ではありますが、まぁ就職活動であったり卒業研究の波はどんどんやってくる訳で、最終的にはなんだかんだ卒業・就職して、一旦は「生きる」ということについて考える余裕もなく忙しい生活に戻っていくことになります。

このときにもう生きることに意味なんて無いというところに達してしまったと書きましたが、今になって思うのその先の重要な視点が抜けていたかなと思います。

それは「意味が無いのはわかった。じゃあそれで自分はどうするのか?」という視点です。
この辺は20代後半になって、また人生に悩む時期になって触れることになります。

緩和休題

僕自身は、この記事を書いている時点では生きる意味についての悩みやある種の絶望感、アイデンティティのブレと言ったものは特に感じていない状態だと思っています。

まぁいずれまたやって来るのかもしれませんが。

一応僕自身はそんな状態なのですが、そんなタイミングでなぜこんな記事を書こうと思い立ったかというと、会社の同僚でちょうど同じようなことに思い悩んでいる人がいて、たまたまその人とこんな感じの話になったからです。

その人曰く「毎日がアイデンティティの危機」らしいです。

当時の僕もそうだったのですが、

「ここまで生きるということについて思い悩んでいる人なんてそうそういない」

「世間の人、身近な人は誰もこんなことに思い悩んでいないように見えるし、相談しても誰にも理解なんてしてもらえない」

なんてことをこの時期には思っちゃうものなんですが、まぁぶっちゃけ少なくない人がこんな感じのことを一度は考えるんじゃないかなーと思いますね。

で、当時の自分を見ているようだったので、逆に僕としても同じようなことに悩んでいる人ってもっと沢山いるんだろうなと思い、せっかくなら自分の経験談を書き殴ってみたいなと思った訳です。

20代後半に訪れた最大の危機

先に述べた会社の同僚ですが、この人もちょうど20代後半らしいですが、僕自身一番人生の先が見えなくなったのは20代後半頃でした。

きっかけとしては以前勤めていた会社の上司がパワハラ気味の上司で、その人と色々合わなくて病んでいったことが直接的なきっかけでした。

詳細は過去の記事に書いてあるので詳細は省きますが、結局この上司と合わないことがきっかけで、適応障害で休職→一度は復職(なぜか同じ上司の下に)→転職先を決めずに数ヶ月で無理矢理退職、というような経過を辿りました。

当時、上司との関係に悩んでいたとき、ある日会社から家に帰る途中で急に涙が止まらなくなったことがあった訳です。

そのまま家に帰ってシャワーを浴びる時も、立っている気力がなくてバスタブに座り込んだままシャワーを頭からかけ続けるだけという状態になり、ひたすら「自分は一体何をしたいんだろう」と考え続けました。

考えたというよりは思い悩んだという感覚の方が近いですかね。

20代半ば頃に思い悩んだあと「じゃあそれで自分はどうするのか?」という視点が抜けていたと書きましたが、まさにこのタイミングでこの視点が抜けていたことがダイレクトに悩みとしてやってきた訳です。

一応、この頃から(というか新入社員の頃から)人工知能・機械学習という分野に携わってきましたけど、その人生をそのまま続けていいのか、それとも全く別の分野に飛び込んで見るのがいいかといったようなことを考え始めます。

まぁ今思い返すと、ここでもやっぱり「仕事を何にするか」という狭い視点でしか考えていないので、まだまだアイデンティティの確立には遠いなとは思いますが。

当時はそもそもITよりも自然に関わることが好きなんじゃないかとか思っていたりもしたので、農業系だったり酪農・畜産業とかも楽しめるんじゃないかとか、あとは海が好きだったので漁業に関する仕事はどうかとか色々考えたりしていました。

実際に復職した頃のタイミングから、家庭菜園にも満たないレベルですが畑仕事を始めたりもしてました。まぁ数ヶ月であっという間に辞めちゃいましたが。

あとはロードバイクが趣味なので、自転車に関わる仕事はどうかなってのも結構真面目に考えたもんです。

上司に悩んでいたことから、自転車に関わることでなおかつ独立してやっていくためのサービスなんかを提供できないかなとかアイディアは実際に出してみたりもしていましたね。

アイデンティティの確立

とまぁちょっと脱線してしまいましたが、そんな感じで「自分は結局何をやりたいのか?」ということに思い悩んだまま、転職先を決めずにパワハラ上司から逃げるように退職した訳です。

多少は貯金にも余裕があったので、まぁ一度のんびり考えるかとなってニート生活をしていた訳ですが、2ヶ月もするとニート生活にも飽きてきて何だかんだ就職活動を再開しました。

最初は一次産業系も結構真面目に視野に入れていたのですが、将来的なことを諸々考えると結局今までやってきたようなことをやるのがいいのかなという結論になって、人工知能・機械学習といった内容で会社を探し始めました。

詳細は割愛しますが、このときにたまたま現在勤めているベンチャー企業に入ったのが、自分に向き合う意識が大きく変わったきっかけだったかなと思います。

入社した直後に関わった仕事は、良くも悪くもベンチャーらしいというか、お客さんはもうすでに居てプロジェクトも始まりつつあるのに、実際に何をやるかは全然決まっていないというようなめちゃくちゃな状態でした。

一応フリーランスのプログラマと経験の浅い社員メンバーはいたのですが、案件を進める上でそもそも何をどうしたらいいのかということが誰もよく分かっていない状態で、このままだと炎上案件になってしまうことが明らかな状態だった訳です。

そんな状況だったので、そもそも心配性な僕は、案件のゴール設定だったりだとか、機械学習で検証すべきことを整理していった訳です。

(機械学習エンジニアとして入社したのに、最初の案件ではほとんどパワーポイントを触っていました…)

案件の詳細は割愛しまして、まぁ最終的には多少のプチ炎上っぽい感じにはやっぱりなってしまったのですが、当初の状況からするとかなり落ち着いた状態で終わることができたのかなと思います。

そのときに、過去の会社・業務では感じることがなかったのですが「自分の思った通りにやりたいことをやっただけ」なのに「結果としておおよそ上手くいった」ということを経験できたことでした。

これは当時の自分からするとかなり大きな経験で、このことがきっかけとなって、

「自分は自分の思った通りのことをやってもいいのかもしれない」

「自分は自分のままでいいんだ」

という感触を得られました。

このようなことが最近徐々に積み重なっていくことで、自分というものを受け入れられるようになったのかなと思います。そして、この「自分をそのまま受け入れる」ということがアイデンティティが確立するということなのかなと。

そして生きる意味の話に戻ってくる訳です。

先程の述べたように生きることに「意味」なんてものはないんです。自分でもそもそもその結論に達してしまった訳ですし。

ただこの頃にその事実を再考した際に過去の自分と異なっていたのは、自己が確立していたということです。

そのため、この時には「生きることに意味なんてないんだ」と絶望を覚えるだけではなくて、

「生きる意味がないなら自分で決めてしまえばいいじゃないか」

と自然と発想の転換ができた訳です。

意味がないなら自分で意味を与えればいいだけ。ただそれだけのことなんだろうなと今ではそう思っています。

そもそも生きる意味を与えられたとして、それがあなたの興味あることや楽しめることじゃなかったらどうするんでしょうか。

また、その意味がなくなってしまったら、あなたは死ぬんでしょうか。

そんなことを考えると、そもそも論として生きる意味が「存在する」なんて状態はやっぱりおかしいだろうと思うんですよ。

なので、生きる意味なんてものは存在するんじゃなくて自分で決めることなんだろうなと思う訳です。

意味は自分で決めるものなので、もちろん長い人生において生きる意味なんて複数あってもいいんだろうなと思います。もしくは、生きる意味が変わってもいいんだろうなと思います。場合によってはコロコロ変わってもいいかなと思います。

自分で納得できない意味を無理矢理設定し続けておくよりかは、違うなと思ったらさっさと別の意味を設定してしまう方がいいのかなと。

後日談

別に後日談でもなんでもないですが、最後に湧き上がる可能性がある疑問について思うところを書いておこうかなと思います。

それは、「生きる意味を決めればいいと言われたって、そもそも何を意味に設定すればいいのかわからん」というような悩みかなと思います。

これはまぁ正直どうしようもない部分かなと思いますが、解決する方法のひとつは「とにかく行動してみる」ということかなと思います。

先ほども触れたように、生きる意味なんてものは「存在しない」訳なんですが、生きる意味に「してみてもいい」候補というのは存在するかなと思います。

それこそ僕の例で言うなら、自転車だったりとか一次産業系の仕事だったりとか。

あとは、人里離れた場所に一人で住んで自給自足の生活をできないかなんてことも考えたりしていました。

別に色々やってみるというのは、仕事に限らず趣味とかでも全然いいかなと思います。今まで何となく興味があったけどやれていなかったことをやってみるとか、そんなちょっとしたことでも大丈夫です。

一人一人が知っている世間のこと、世間に存在していることなんてたかがしれている訳ですよ。そんな数少ない情報の中だけから生きる意味を設定するなんてことはむしろ危険じゃないでしょうか。

とにかくまずは色んなことを経験して、自分の世界を広げてみることから始めるのがいいんじゃないかなと思います。

僕自身でいえば、退職した後の再就職先としてベンチャー企業を選んだことはかなり大きなチャレンジだったかなと思います。

元々僕は保守的で安全な道を進みたがる性格ではあるんですが、何を思ったのかこの時にふと「ベンチャーを経験してみるのもいいかな」と思って今の会社に入りました。

するとそこで経験したことがきっかけとなってアイデンティティの確立ができたと言っても過言ではないかなと思います。

そんな感じで、ちょっとやってみたことそのものが生きる意味にはならなかったとしても、そのやってみたことに関連して何かしら自分の人生や人生観が大きく変わるということは大いにあり得るかなと思います。

おまけ

本題は以上で終わりな訳ですが、今まで生きる意味や人生に悩んできたなかで色々と書籍を読んでみたりもした訳ですが、その中で大きく印象に残ったものを2つ紹介したいと思います。

1つめは仕事なんか生きがいにするなという本です。

これは明らかにメインタイトルで損をしている本だなと思うのですが、サブタイトルは「生きる意味を再び考える」となっています。

このサブタイトルがむしろ主題なんじゃないかなというような内容になっています。

書評を書くのが苦手なので詳細はググってもらえればと思いますが、

  • 人は生きる意味がないと衰弱していって最終的には死に至る
  • 物質的・経済的に飽和状態に入った日本では、生きる意味を見出せない人が続出している

というようなことが書かれている本です。

もうひとつはちょっと長くはなりますが、サピエンス全史です。

上下巻に分かれているので、まとめて上下巻セットで買っちゃった方がいいかなと思います。というのも、生きる意味について触れられているのは下巻のさらに後半部分なので。

ただ、これは生きる意味のこと以外にも現生人類がどんな経験(革命)を経て進歩してきたかということが書かれているので、単純に読み物としても面白いと思います。

この本の中では「科学的には人間の生きる意味なんてものはある訳ない」とはっきりと明言されています。人類の進歩の歴史を踏まえた上で「生きる意味はない」と言われると、ある意味諦めとも言える感情を持ちながらも「確かに意味なんてないよな」と思えるかなと思います。

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