「生きる意味なんてない」からこそ選べる、自由な生き方

「生きる意味なんてない。だからこそ自由に生きられる」という話をよく見かけます。私も今はそう思っています。

ただ、この言い方には抜けている部分があると思っていて、それは順番の話です。私自身は20代半ばで「生きる意味なんてない」という結論に自分で辿り着きましたが、そこからやってきたのは自由ではありませんでした。ただの絶望でした。自由だと思えるようになるまでには、そこから5年近くかかっています。

つまり「意味がない」と気づいただけでは自由になりませんでした。今回は、その間に何があったのかを書きます。今まさに「意味がないことは分かった、それで結局どうすればいいのか」というところで止まっている人には、多少参考になるかもしれません。

目次

  1. 「意味がない」に辿り着いた日、私は自由になっていない
  2. 意味がないまま、片っ端から試した数年間
  3. 自由に変わったのは、意味とは関係ない場所だった
  4. 「意味がない」が自由になる条件
  5. まとめ

1. 「意味がない」に辿り着いた日、私は自由になっていない

私が「生きる意味なんてない」という結論に達したのは、学生の終わり頃です。就職活動がうまくいかず、自分は社会から必要とされていないんじゃないかと考え始めたあたりでした。

そこから極力論理的に考えていった結果、「生きるとは生命活動を維持している状態のことで、それは受け入れざるを得ないもの」だという整理になり、その裏返しとして「じゃあ意味なんてないじゃないか」というところに行き着きました。詳しい経緯は生きる意味に悩む人に伝えたいことに書いています。

問題は、そのときの気分です。

生きる意味を見つけたくて考え始めた人間が、自分で納得できる論理で「意味はない」と結論してしまったわけです。逃げ場がありません。他人に「意味なんてないよ」と言われたのなら反論もできますが、自分で出した結論には反論できない。あのときの感覚は、自由とはほど遠いものでした。

だから私は、「意味がないと気づけば楽になる」という説明をあまり信用していません。少なくとも私には効きませんでした。楽になるどころか、その後何年も引きずっています。

2. 意味がないまま、片っ端から試した数年間

とはいえ、意味がないという前提には一つだけ実用的な効果がありました。何を選んでも間違いにはならない、ということです。

正解が存在しないなら、選択を正解不正解で採点する必要もない。この理屈で、20代後半に体調を崩して仕事を離れた頃、私はかなり脈絡のないことを一通り考えました。

もともとITより自然に関わることの方が好きなんじゃないかと思っていたので、農業や酪農、畜産を調べました。海が好きだったので漁業も見ました。ロードバイクが趣味だったので、自転車に関わる仕事で独立できないかとサービスのアイデアを実際に書き出したりもしています。人里離れた場所で自給自足の生活ができないかも、割と真面目に考えました。

結果を書いておくと、ほとんど何も残っていません。

畑仕事は実際に始めました。家庭菜園にも満たないレベルでしたが、手は動かしました。数ヶ月であっさり辞めています。自転車の事業アイデアも形にはなりませんでした。一次産業も、結局は選んでいません。最終的に私が転職したのは、それまでと同じ人工知能や機械学習をやっている会社です。

ここだけ見ると、遠回りして元の場所に戻ってきただけに見えます。実際、当時の私もそう思っていました。

ただ、今振り返ると、この期間に意味があったとすれば「自分の世界がどれだけ狭いか」を実測できたことだったと思います。人が知っている選択肢の数なんてたかが知れていて、その狭い範囲の中から生きる意味を一つ選ぼうとするから苦しくなる。一度手を出してみて「これは違った」と分かることの方が、頭の中で候補を並べ続けるよりよほど早かったです。

自由というのは、たぶんこの状態のことです。何をやってもいいし、大半は続かないし、それで別に困らない。

3. 自由に変わったのは、意味とは関係ない場所だった

では、いつ絶望が自由に変わったのか。私の場合は、はっきりしています。転職先のベンチャーで最初に関わった案件です。

これが良くも悪くもベンチャーらしい状況で、お客さんはもういるしプロジェクトも動き始めているのに、実際に何をやるのかが誰も決めていない、という案件でした。フリーランスのプログラマと経験の浅いメンバーはいましたが、進め方を分かっている人がいない。放っておけば炎上するのが目に見えている状態です。

もともと心配性なので、私は勝手にゴール設定を作り、機械学習で何を検証すべきかを整理し始めました。機械学習エンジニアとして入社したのに、最初の数ヶ月はほとんどパワーポイントを触っていた記憶があります。

最終的にはプチ炎上くらいはしたのですが、当初の状態からすればかなり穏当に終わりました。そしてこのとき初めて、「自分が思った通りにやっただけなのに、結果としておおむね上手くいった」という経験をしました。

これが効きました。生きる意味とは何の関係もない、ただの案件の話です。それなのに、ここを境に「自分は自分のままでいいのかもしれない」と思えるようになりました。

そのうえで改めて「生きる意味はない」という昔の結論を眺めてみると、今度は絶望ではなく「じゃあ自分で決めればいいじゃないか」という発想が自然に出てきました。結論は何一つ変わっていません。変わったのは、その結論を受け取る側の私でした。

4. 「意味がない」が自由になる条件

そういうわけで、私が思っている条件は一つです。

「意味がない」が自由になるには、先に自分を受け入れられている必要がある。

自己が確立していない状態で「意味がない」を受け取ると、それは「自分には価値がない」の言い換えとして着地します。私が20代半ばで味わったのはこれでした。逆に、自分をそのまま受け入れられている状態で同じ結論を受け取ると、「なら好きに決めていい」になります。

厄介なのは、順番を意図的に作れないことです。私も「先に自己を確立しよう」と思って確立したわけではありません。たまたま入った会社の、たまたま任された案件でそうなっただけです。意味を探して動いた結果ではなく、意味とは無関係に動いた結果でした。

だから「意味がないのだから自由に生きよう」という言葉が今しんどいなら、それは受け取り方が間違っているのではなく、単に順番が来ていないだけだと思います。私自身、あの案件に当たっていなければ今も絶望のままだった可能性は十分にあります。

なお、これはあくまで私個人の経過です。心身の不調が続いている場合は、考え方の整理でどうにかしようとするより、医療機関などの専門家に相談する方が確実だと思います。私も当時は診断を受けて仕事を離れています。

5. まとめ

生きることに普遍的な意味はない、というところは今も変わっていません。ただ、その事実が絶望に見えるか自由に見えるかは、事実の側ではなく自分の側で決まります。

私の場合は、意味について考え続けた時間ではなく、意味と関係ないところで一度うまくいった経験が転換点でした。順番としては、自由が先にあって、意味の話は後からついてきた形です。

意味を出発点にして何ができるかという話はこの記事に書いたとおりですが、そもそも理由を持たずに生きてはいけないのかという角度からは生きる理由なんて、本当に必要?に書きました。私が実際に理由のない状態で数ヶ月生活してみたときの記録です。意味が決まらない日常をどう扱うかについては生きる意味なんかなくても毎日は回るを、ここまでの経緯全体は生きる意味に悩む人に伝えたいことをどうぞ。

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