「これくらいでいい」を下限ではなく上限だと思っている

「これくらいでいいよ」——よかれと思って口にしたその一言が、こちらの意図とまるで逆の意味で受け取られて返ってくる。そんな経験はないだろうか。

下限のつもりで引いた線を、上限として読まれる。前提の「〇〇なら」はきれいに削げ落ち、結論だけが律儀に持ち帰られる。しかも、何度説明しても同じ場所に着地する。

これは、そんな部下を前にした上司の、解決策なき愚痴である。共感できる人だけ、どうぞ先へ。

目次

  1. はじめに:「これくらいでいい」と言ったのが、間違いだった
  2. 「〇〇なら」を、彼らは聞いていない
  3. これくらいでいい」は、下限である
  4. 妥協のラインを、最初から取りに行く
  5. そして、何度でも同じことが起きる
  6. これは、伝え方の問題なのか
  7. まとめ:「なら」を、もう一度ちゃんと渡してみる

1. はじめに:「これくらいでいい」と言ったのが、間違いだった

「これくらいでいいよ」と言った。

そう言った自分を、いま少し恨んでいる。

あの一言は、優しさのつもりだった。全力でやらなくていい、ここまでやってくれれば十分だ——そういう「目安」を渡したつもりだった。締め切りも近かったし、相手の負担も考えた。気を遣ったのだ、こちらは。

なのに返ってきたものを見て、固まった。

本当に、「これくらい」だけが、ぽつんと置かれていた。

それ以上でも以下でもなく、こちらが口にした最低ラインが、そのまま完成品として提出されていた。まるで「これくらいでいい」という言葉を、設計図ではなく、ゴールテープとして受け取ったかのように。

このすれ違いには、たぶん名前がない。だから書く。今日はもう、ただ書く。

2. 「〇〇なら」を、彼らは聞いていない

そもそも、指示には前提がついている。

「急ぎなら、ざっくりでいい」 「叩き台なら、箇条書きで十分」 「社内向けなら、体裁は気にしなくていい」

この「〇〇なら」の部分こそが本体だと、こちらは思っている。条件があるから、結論がゆるむ。急いでいるから、ざっくりでいい。社内だから、体裁を省ける。前提と結論は、セットで初めて意味を持つ。

ところが、だ。

その「〇〇なら」が、彼らの耳には届いていない。

正確に言うと、聞こえてはいるのかもしれない。でも、持ち帰る段階できれいに削げ落ちている。「急ぎなら、ざっくりでいい」と言ったのに、急いでもいない案件が、ざっくりのまま出てくる。条件が外れた世界でも、結論だけが律儀に生き残っている。

主語を切り取ってきたな、と思う。文章の前半を、まるごと捨ててきたな、と。

そして本人は、ちゃんと言われた通りにやったという顔をしている。これが一番こたえる。

3. これくらいでいい」は、下限である

ここが、今日いちばん言いたいところだ。

こちらが「これくらいでいい」と言うとき、それは下限を示している。「最低でもここまでは欲しい」「ここを割ったら困る」という、床の高さの話をしている。床より上はいくらでも歓迎で、むしろ床の少し上を歩いてきてくれることを、ひそかに期待している。

ところが受け取る側は、まったく同じ言葉を、上限として理解する。

「これくらいでいい」=「これ以上やったら無駄」。 「ここまでで十分」=「ここで手を止めるのが正解」。

同じ一文が、渡す側と受け取る側で、上下まるごとひっくり返って届いている。こちらは床のつもりで置いた線を、向こうは天井として読む。だから、ぴったり線の上で作業が止まる。一ミリも、上に出てこない。

言葉は同じなのに、目盛りの向きが逆なのだ。こちらの定規は下から上に伸びていて、向こうの定規は、その線で終わっている。

4. 妥協のラインを、最初から取りに行く

妥協というのは、本来、努力の果てにあるものだと思っていた。

精一杯やってみて、時間や事情とにらめっこして、「まあ、今回はここまでだな」と引いた線。それが妥協点だ。手を尽くした上での着地だから、妥協には少し悔しさがにじむ。

ところが、彼らはそこへ最初から直行する。

スタートと同時に妥協のラインに立っている。努力の果てにたどり着くべき場所が、なぜか出発点になっている。「最後に行き着くかもしれない場所」を、最初の一歩目で踏んでいる。

これを「サボっている」と責めるのは、たぶん正確ではない。本人なりに、手は動かしている。ただ、目指している点の位置が違う。こちらが「最低でも」と引いた線を、向こうは「とりあえず」の到達目標にしている。

だから悪意は感じない。感じないからこそ、どこに怒りをぶつけていいのか分からなくて、宙ぶらりんのまま、ため息だけが出る。

5. そして、何度でも同じことが起きる

一度は、説明した。

「これは下限の話で、上限じゃない」と。「条件が変われば、求めるものも変わる」と。図に描いてもいい勢いで、ていねいに。そして相手はうなずいた。分かりました、と言った。次の提出物は、たしかに少しマシだった。直ったかもしれない、と思った。

思ったのに。

次の案件で、また、同じ場所で止まっていた。

線の上で、ぴったり。前回と寸分違わぬ着地。あの説明はどこへ行ったのか。あのうなずきは何だったのか。リセットボタンでも押されたみたいに、まっさらな顔で「これくらいでいい」の上限に座っている。

何回目だろう、これは。

数えるのをやめた頃から、徒労という言葉の意味が、体でわかるようになった。同じ説明を、同じ熱量で、もう一度する気力が、正直、湧いてこない。説明するたびに、こちらの何かがすり減っていく。直らないものを直そうとする時間は、なぜか自分の側の消耗としてだけ、残高に記録されていく。

既視感というのは、こんなにしんどいものなのか。

6. これは、伝え方の問題なのか

ここで、物分かりのいい上司なら、こう書くのだろう。

「伝え方が悪かったのかもしれない」「前提を明示しなかった自分の責任だ」と。

でも、今日は正直に書くと決めたので書く。——前提は、明示した。

「これは下限です」と言葉にした。「条件が外れたらやり方も変わる」と前置きした。曖昧さを残さないように、わざわざ言わなくてもいいことまで言った。それでも、結果は変わらなかった。線の上で、また止まっていた。

だから、もう「言い方の問題」では片付けたくない。

伝え方を磨けば届く相手と、何をどう磨いても同じ場所に着地する相手がいる。前者には工夫が効く。後者には、工夫が吸い込まれて消える。こちらがどれだけ定規の向きを説明しても、向こうの定規は、向こうの向きのままだ。

全部を自分のせいにして反省する姿は、たしかに美しい。でも、その美しさのために、こちらの消耗を全部引き受けるのは、もう違う気がする。届かなかったものの全部が、こちらの不徳ではない。

そう思っていいはずだ。今日くらいは。

7. まとめ:「なら」を、もう一度ちゃんと渡してみる

さんざん書いて、少しだけ、息が整った。

結局のところ、解決策と呼べるものは、まだ手元にない。明日もたぶん、誰かが線の上で止まっている。それを見て、また小さくため息をつくのだろう。

ただ、ひとつだけ。

次は、「これくらいでいい」とは言わないでおこうと思う。代わりに、条件と結論を、面倒でも分けて渡す。「これは下限だ」「ここから上は歓迎だ」と、上限と下限を、最初から言葉にして置いておく。それで直る保証はない。たぶん、半分も直らない。

それでも、こちらが定規の向きを示すのをやめてしまったら、もう本当に、すれ違ったままになる。だから、もう一度だけ「なら」を渡してみる。何回目かは、数えない。

——届くといいな、とは、もう期待しすぎないことにして。